偉人伝 ~伊勢を想う人々~

古くから日本人を魅了してきた伊勢という町。その繁栄は多くの偉人たちによって支えられてきました。
ここでは、知られざる偉人たちにスポットを当て、この町の魅力を再発見していきます。

伊勢の町と神宮の関係を大きく変えた変革者
浦田長民

2020.12.15

古く平安時代におこり、のちに「御師」と称されるようになった人々がいました。江戸時代、お伊勢参りが盛んになるにつれ伊勢の御師たちはおおいに活躍してきました。明治になって、新しい神宮のあり方を確立するために、御師の私邸で行う御神楽や御札の配布が禁止され、「御師」という職業はなくなります。自らが御師でありながら、この改革を断行した浦田長民という人の、心の内に迫ります。

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2020.12.15

伊勢参宮に欠かせなかった御師という職業。御師の家に生まれながら、自ら御師廃止を決断・実行することに、いったいどんな意味があったのか

宇治の今北山墓地のなかにある浦田長民の功績を称える碑。この墓地に浦田家の墓もある。
神領伊勢の自治を見守るために置かれていた山田奉行所跡を知らせる石碑。1635年から230年余り伊勢市御薗町小林にあった。
地元の作家・山中隆雄による『小説 浦田長民』。改革に至るまでの長民の心の動きや断行するにあたっての苦悩がよくわかる。(向陽書房刊)
江戸初期、外宮の神官・出口延佳らによってつくられた豊宮崎文庫。今は築地塀と門が残るのみとなった。江戸時代には多くの学者が講義も行い、現・神奈川県の金沢文庫、現・栃木県の足利文庫(足利学校)と並び称された。明治になると度会府管轄の学校(豊宮崎学校)とされ、のちに林崎学校(内宮林崎文庫の後身)を吸収合併して度会県学校となる。その設立には長民も深く関わった。
烏帽子世古には、御師・丸岡宗大夫の屋敷が残されている。世古の名は、この世古に神殿(こうどの)という祠があって神楽衆が烏帽子をつけて出入りをしていたことに由来するという。
伊勢市役所の駐車場には、御師・三日市太夫の屋敷の築地塀の跡が残っている。敷地面積は1,800坪(約6,000㎡)もあり、1日に100人近くの人々を宿泊させることができたほどの最大級の御師だった。

 浦田長民は、伊勢の町に大変革をもたらした人物です。伊勢神宮は、本来、私幣禁断の場所でした。つまり、そもそも天照大神は天皇がご自分の住まいのなかで奉斎し国家の安寧を祈る神様だったので、天皇以外の人が、「私」のために祈ることは禁止されていたのです。けれども平安時代頃から、宮廷人の個人的祈願が行われるようになりました。江戸時代になると、御師と呼ばれる人々が、全国各地から伊勢参りに訪れる人々案内するようになり、喜ばれました。この御師という存在は、今のように情報が豊富ではない時代、伊勢を訪ねる人々に必須のものでした。御師は、神宮の魅力を広く世の中に伝えてきたのです。幕末・明治の変革期を経て、それがなぜ無くなって、そのために自ら御師の家に生まれた浦田長民という人がどう動いたのかを見てみましょう。

伊勢の町と神宮の関係を大きく変えた変革者
浦田長民

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